2015年5月の山陽の旅。萩城で最後に行くのは潮入門跡(しおいりもんあと)です。

萩城の守りは海に面した東側が手薄と言われていて(そうは思わないんだけどなー。)、二の丸の東側には石垣の上に土塀が建っていました。
石垣がまだ残っているということなので、見に行ってきました。

萩の旅

潮入門跡

 

潮入門跡。ここに門が建っていたとすれば、かなり大きな門なんだったろうな。
この門からは直接日本海に出て行くことができました。

門を通りぬけると、海だー!

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潮入門跡から見た日本海

そしてキレイだー!

肝心の土塀は?というと、

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曲線の土塀が美しい!

おぉ。曲線が美しい。
東門跡から潮入門までこの石垣+土塀がずーっと続いていたそうです。
二の丸の土塀は一部が昭和40年に復元されたました。当時のイメージが伝わってくるなぁ。
この石垣の長さは圧巻なのです。

二の丸の中に戻り、土塀に沿って本丸の極楽橋方面を目指す。
このまま東門の方に抜けることもできそうだったけど、自転車を置いてきたので元の所に戻るのだ!

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二の丸東側の土塀

復元された土塀を見ながら歩く。
この二の丸土塀は「銃眼土塀」で、海からの攻撃に対抗すべく、壁に四角い銃撃用の穴があいているのです。

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二の丸東門の土塀

銃で応戦できるようにするための土塀ということもあり、駆け上がれる石段もちゃんとありました。

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内掘

そして内掘が見えてくる。
萩城の内掘りはカクカクと細かく折れ曲がっています。

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華矢倉跡

右側の一段高くなったところは櫓台で、華矢倉跡。ということで櫓が建っていました。

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華矢倉跡

萩城にある案内板はこの華矢倉だけでなく、「櫓」の字には「矢倉」を使っていました。

月見矢倉時打矢倉(ときうちやぐら)があった付近を抜けて二の丸の駐輪場へ。
そこから先は萩城の城下を一直線。
シャーっと自転車で駆け抜けるのだ!

萩城の城内にはまだ見ておきたかったところがあって、時間があれば立ち寄りたかったんだけど・・・
・花江茶亭(はなえちゃてい)
13代藩主の毛利敬親が三の丸の花江御殿に建てた茶室。明治期に本丸に移されました。
遠目で見ただけなので、近くまで行って見学したかったな。
・旧厚狭毛利家 萩屋敷長屋
萩城の駐車場そばにある建物。毛利家の分家にあたるお家柄だったそうな。
萩城の入場料を払うと共通券になっていて萩屋敷長屋も見学ができます。
・詰丸跡
言わずと知れた指月山の山頂にある詰め城の跡。
頂上の平地を石段で区切っていて、上段が本丸、下段が二の丸でした。
石垣の上には壁をめぐらせて矢倉もあったという。

大河ドラマがやっているうちにもう一度、見に来たいな。
もっと解説案内板とかが詳しくなっているかな。

とにもかくにも、急がねば!

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萩城 城下町

通ってきた萩城の城下町も駆け抜ける。駆け抜ける。わき目もふらず、駆け抜ける。

というのも、日が暮れる前にバスに乗らなきゃ新山口に帰れないのだ!

東萩の駅に戻る間に不思議なスポットを発見。
唐樋高札跡。復元された高札場です。

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唐樋高札跡

高札場とは、幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示する場所。明治時代の初期までこういった高札を掲載する場所が日本のあちこちにありました。

案内版によると

唐樋札場跡では平成21年2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎(版築土)の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などが見つかりました。これらは全て地中に保存されています。建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱間距離はそれぞれ1.97mです。
こうした発掘調査の成果と文献記録、絵図、類例建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復原しました。

時代劇では人の往来の多い場所、たとえば橋のたもとなどに木の看板が建てられていて、町人たちがその前で騒いでいる様子が出てくるけれど、萩の唐樋札場は基礎工事がされた上で高札を掲示する建物がしっかり建てられていたのね。
復元された高札場は現代でも人や自転車、車の往来が多いスポットでした。

バスが出るまであと少し。
今回の旅の最後の目的地である「松陰神社」へ向かいます。

<松陰神社編へ続く>

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